ハラスメント と虐待の行為が悪いところが似ているという話しではありません。
今は一般的になったこの2つの言葉がもたらす弊害について述べたいと思います。
「この上司の行為はハラスメント だ!」「この親の行為は虐待だ!」という発想は、どちらも「暴力的なコミニュケーション」を誘発する言葉だと私は常々思っています。
「えっまさか!」と思われる方もいるかもしれませんが、これらの言葉は解釈であり、評価であり、人の行為を決めつける、人と人とを分断させる言葉です。
これまで、ハラスメントに関しては、触れてきたので、虐待という言葉についてここでは述べます。
「虐待だ!」と言われることで親は追い詰められます。
世間で定義されている。虐待と言うのは、どこの家庭にも起こりえます。
私は今平日は毎日夜、2歳と3歳の孫の子守り・育児補助をしています。
これは孫の母親である私の娘が、孫に対して「虐待」と思われる行為をすることを防ぐためです。
実際に育児補助をするとわかりますが、いくら大人が子どもの意思を尊重しようと思って接しても、子どもがこの世の終わりのように泣き叫ぶ事は発生します。
特にお互いのやりたいことを、そのまま純粋に主張する、2歳や3歳を子どもが一緒にいる空間では、子ども同士の諍いから片方が泣き叫ぶと言う事は頻繁に起きます。
そして、あまりにも泣き叫んでいると、周りの大人も、つい大声で叱りたくなります。
その場面は、世間で言われる虐待に該当します。
私の娘も、「そんな泣き方が近所に聞こえたら虐待と思われるでしょ!」という言葉が出る位、虐待という言葉が、一般的に出回っていて、それは親にとっては、恐怖にもなっているのです。
フランスでは「虐待」という言葉の代わりに「心配」と言う言葉を使っています。
親が子どもを怒鳴っている場面を見たら、「あぁ、この親にはこのような行動に走ってしまう、何か事情があるのだな」と言う見方をします。
そして、その心配を解消するための支援の手段をたくさん用意しています。
これが本来の姿だと思います。
子育ての世界も、福祉の世界も、労働の世界も根本は一緒だなと思います。
「誰が悪いか?」「悪いことをした人には、どんな罰がふさわしいか?」という、報復的・応報的アプローチではなく、「誰が傷ついたか?」「その傷つきを解消するにはどうしたら良いか」という修復的アプローチこそ、今の世の中に必要な考え方だと思います。
これを広めるために、私は全力を注いでいきたいと思います。
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